すやの歴史

歴史

中山道中津川 すや
美濃中津川---町の中を旧中山道が通っている。木曽路の入口にあたる古い宿場町である。
中津川の町は、町のどこを歩いても恵那山が見える。2191mのこの秀麗な山は、美濃と信濃とを分ける分水嶺だ。この山の上に、刷毛で刷いたような雲が流れると、美濃路のはてに秋がはじまる。幾筋も波打つように横たわる丘陵には、野萩が紅い花をつけ、やわらかな芒の穂が風にそよぐ。そして広大な恵那山麓のいたるところに栗の毬が笑みほころびはじめ、中津川新町の古い菓舗“すや”に、一年のうちでもっとも忙しい季節がめぐってくるのである。
良寛の書から拾ったという「すや」の二文字(※1)、その木曽けやきの大看板を掲げるこの店は、中津川でも、一、二の旧家として知られる家だ。菓子箱に貼られている版画風の絵は、藁葺の茶店を描いているが、建物はそんな姿で江戸後期の宝暦頃から、中山道に面して立っていた。
創業は元禄年間。江戸から下ってきた一人の武士が、この宿場町に住みつき、「十八屋」の屋号で酢の店を開いた。赤井九蔵というその人が“すや”の初代である。中津川宿の酢は、中山道でも有名だったらしく、享和二年(1802)に、中山道を大阪から江戸へ下っていった大田南畝(※2)は、この宿場に酢をひさぐ「十八屋」があることを、『壬戌紀行(じんじゅうきこう)』の中に書き留めている。“すや”の現在の建物は、南畝が通ったときすでに建っていたわけだが、彼も、この酢屋が百年後に菓子屋に変わろうとは思ってもみなかったことだろう。
(※1)良寛のいろはの書から倣たものでございます。
(※2)大田南畝 おおた・なんぼ(1749-1823)
江戸後期の狂歌師・戯作者、江戸の人。名は覃。別号は蜀山人・四方赤良。有能な幕臣でもあり、広く交遊をもち、天明調狂歌の基礎を作った。編著「万載狂歌集」、咄本「鯛の味噌津」、随筆集「一話一言」など。(大辞泉)